「こうなりたい!」と理想の状態を掲げるのは大事ですし、とても素晴らしい。
でも、そこへたどりつくためのステップ、階段、道順が設計できていなければ、実は全く全く意味がないです。
自分が練習するにおいても、生徒さんを始動するにおいても。
この視点、「設計すること」が欠けていると、成長できない自分に打ちのめされてしんどくなる可能性が大きくなってしまいます。
出来ないのは努力不足ではないです。
掲げた目標は頑張っていれば、いつか出来るようになると言う考えもちがいます。
どういったステップで辿り着くかの設計。小さな目標。そのために何が必要か。
そして、そのために一番大事なのは、今の自分がどんな状況なのか、今の生徒さんがどんな状況なのかを明確に分析出来ることです。
高い目標を提示すれば、誰もが皆その目標をクリアできる。
たしかにそういうことも希にあるかも知れないけど、みな一様ではない。
僕は出来たから君も出来る。これも乱暴な考え方です。
僕が出来たから、生徒さんもできるとは思うのは危険です。
僕、私の立場ってどんな立場ですか?
レッスンをしている立場なら、周囲の人とくらべても、そこそこ楽器に打ち込めてのめり込むことができたから、レッスンが出来るほどにその楽器をあつかっているわけです。
私と同じことが簡単にできるか、この事実に気がつかないといけない。
「私」というフィルターを外して向き合うことがとても大事です。
私の成功体験は大事ですが、それは「私」の個性だから。
普遍化すること、多くの人が対応できるように、ステップ、階段に分解できる力が試されます。
私は毎日練習できた。楽譜を見たら初見で出来た。先生の話は忘れずにメモしたし覚えられた。
でも、みんなができることじゃないと知ること。
みんなができることなら、みんな専門家になれます、みんな先生になります。
でも、そうじゃないですよね。
だから、私が理想をおいもとめて私が出来上がったとおもうのはいいけど。
それは私だからです。
私とはちがうやり方で育てなければいけないのです。
違うやり方、違う人間。
育成する、育てるってのは、そういくことです。
相手に合わせた小さな階段を一緒に作る。
その優しさは、甘えではないです。
確実に成長できる、確実に踏み出せる一歩に繋がります。
高い理想を掲げ、厳しい言葉を投げかける。
そうすると、指導者は自分の志の高さに「うっとり」し、生徒さんもまた、高尚な目標に向かっている自分に「うっとり」してしまう。
でも、そこにあるのは「進んでいる感覚」だけで、実際には一歩も動いていない、という残酷な現実かもしれません。
厳しい言葉は、時として「劇薬」になります。
一瞬だけモチベーションが上がったような気がします。
生徒さんに素晴らしい指導が出来たような気がします。
ステップが設計されていないレッスン。
高い目標を実現するために必要な順序を否定するような指導。
頑張って出来るようになって。
努力不足、練習不足。
前もいったはずだけど。
なんて言葉で埋め尽くされる。
「結局何も変わっていない自分」への絶望感が残るだけです。
僕には、その「うっとり」とする時間の価値が全くわかりません。
そんな霧をつかむような時間よりも、着実に出来ることから初めていく。
出来ることを基準に積み重ねてゆく。
そんな、地味で、泥臭くて、でも確実に手応えのある「小さな一歩」を積み重ねる方が、よっぽど豊かで誠実な時間だと思えてならないのです。
着実に進める一歩の練習を、レベルの低い指導、レッスンとバカにしたり、なめてしまっていませんかね。
指導者も生徒さんも。
レベルの高い指導、レッスン、それ本当に意味ありますかね?
結果がでる設計をしていますか?
うっとりしているだけじゃないですか?
言ってもらいたいことを言ってもらっているだけじゃないですかね?
ではごきげんよう。