尺八の動画をアップロードしているとこんな声がきこえます。
和風の曲だから、和楽器があう。
この曲は、和楽器があう。
違和感なく聴ける。
といったニュアンスの言葉、結構あります。
こういった視点、どうして生まれるのでしょう。
和風の曲、という判断。
和楽器は和風にあう、という判断。
違和感、という判断。
なんらかの経験や知識に基づいていると思うんですよね。
そもそも、和楽器、をどう捉えているのかとうのも気になります。
和楽器は→
・和風の曲を演奏する物
・演歌を演奏する物
・日本の曲を演奏する物
・古い曲を演奏する物
・よくわからない曲を演奏する物
・音楽ができない物
○○する物という考えを、うーん、なんていうんだろ、見識の狭いもの、にダウンさせて行きました。
思い込みの枠、固定概念を、狭くしていくという感じでしょうか。
○○は△△、限定する方向に進めば進むほど、考えることや感じること、を放棄したかのような思考。
その枠は、自分の了見で作っているわけですから、見識の狭さ、を露呈しているということにも思わないわけです。
それが、当然で当たり前の価値感であると。
先ほど書いた、和楽器の捉え方に狭めてゆくダウンがあると言うことは、その上もあって、それはどんどん広がって解放されていくわけですよね。
最低が、「和楽器は音楽ができない物」ですから、
最上位には、「和楽器は音楽をする物」という認識が来るわけです。
音楽をする物、という認識ならば、
和風だとか、
和っぽい曲だとか、
そういった、組み分けはする必要はまったくないんですよ。
それじゃなきゃダメだって言うことは全くないんです。
ピアノ、ヴァイオリン、ギターなど、その他の楽器に関して、限定するような発言しますか?
もともと、限定的な楽器として始まっているのは同じです。
ピアノやヴァイオリン、西洋楽器で
日本のわらべ唄、童謡を演奏しようが、音楽に合わない。とか言いませんよね。
天城越えで、マーティ・フリードマンがギターをぎゅんぎゅん言わしても、演歌にエレキギターはないわ。とか言いませんよね。
他にも一杯ありますよね。
なぜ、西洋楽器は限定せずに受け入れ、和楽器は限定する思考になってしまう人が多いのか。
日本は以前、鎖国していました。
鎖国していたらか、楽器は和楽器が当たり前の楽器です。
そこへ、ピアノ、ヴァイオリンという西洋の楽器が入ってきます。
最初のころはどんな印象だったと思います?
西洋楽器の音程感は、日本人にとって音痴にきこえたそうです。
あまり、受け入れられなかったと。
で、どんな方法がとられたかというと、
ヴァイオリンは、三曲合奏に混ざったらしいです。
三曲合奏のヴァイオリン譜が存在する理由はそういうところです。
箏・三味線に混ざって、ヴァイオリンを演奏する姿が写真にあります。
そんなに昔に戻らなくとも、三橋美智也が歌う民謡の和楽器の伴奏にまざって、バイオリンなど西洋楽器が流れています。
で、音色などが受け入れられるようになっていったと。
その後の話を詳しく書くと面倒なので、省きますが、ともあれスタートはそうだったんです。
受け入れて、いいね、という人たちがいた、ってわけです。
中には、頭の固い人もいたかもしれませんが、確実に、面白いと興味をもった人がいたわけです。
そして、日本人にとって最もポピュラーな楽器、身近な楽器が、和楽器、から、ピアノなどの西洋楽器に変ってしまったわけです。
生活の中にある音、生活の傍らにある楽器がすっかり変ってしまいました。
余談ですが、こういう、歴史的に当たり前の話をすると、西洋楽器をやっている人は、日本には和楽器しかなかったという事実や、その音程感が最初は笑いものだったということを信じられないんですよね。
かつて、柔軟に受け入れた人達がいて、現在につながっているということを信じられないんです。
最初から、当たり前だった、と思いたいんですよね。
もうこの時点で、なんらかのバイアスをかけて、西洋楽器と和楽器をみていると思うんです。
ま、話を戻します。
そうやって、受け入れられて西洋楽器は一般化されていきました。
あらゆる音楽を演奏します。
ですが、元から合った和楽器は、受け入れられて広がっていくのではなく、狭められて、限定されるような形になってしまっているのです。
和楽器で演奏するのは○○と。
○○に合う。と。
昔に戻そう、とかそういう話ではないんです。
経過を話しただけです。
で、今どうするか、を考えるのが目的です。
さあ、ここで考えておきたいことがあります。
・一般の方が、期待する、予測する、限定する形に合わせるのが戦略としてよいのか。
・限定する形を無視する、和、和風、だとかの枠にはとらわれないのが戦略としてよいのか。
あくまで僕の考えに過ぎませんが、明確に答えをもって自分の活動をしています。
今日の本文の中には、まだ登場していないものがあります。
限定の先にあるもの。
一般の印象は、本文で書いた以外には存在しないのか。
そのあたりも考えて見てください。
どちらにせよ、結果を出すために必死にならなくてはいけないのは当然です。
長くなりそうなので、今日は一旦ここで終わりにします。
また明日も同じ話題を書きます。
では、ごきげんよう。
※今日のごはん写真
今回の話の中で、他の国の民族楽器のことをあげる方もいるかもしれません。
例えば、インドの民族楽器で、ポピュラリティを求めるより、インド音楽をやったほうが価値がある。とか。
アイリッシュの楽器なら、アイリッシュの音楽をやる方が意味がある。とかかな。
だから、日本の楽器、和楽器もそうだ。みたいな考えに帰着する。
いや、違うんですよ。
だってここ日本じゃないですか。
インドじゃないし、アイリッシュじゃないんです。
じゃないからこそ、他の国の民族楽器を日本で演奏するときには、その国の民族音楽をそのままする意味が大きくあると思います。
また、一方では、ゲーム音楽などでオリジナルのメロディを演奏しても、その民族楽器として持つ音色が世界観を伝えてくれます。
他の国の民族音楽がどんな傾向にあるか、僕は詳しく知りませんが、
ボリウッド音楽とかを聴くとインドの民族音楽だなとおもうし、現代とも融合しているとも思います。
乖離した物になっていないと僕は感じます。
植民地になった国の多くは、楽器だけが残った状態。
その国の伝統的な音楽がしっかり残っているかというと微妙な状況なのです。
その国で古くからある楽器を使って、今の感性で音楽を作って演奏しているということも少なくないのです。
伝統音楽をするからその国の民族性を感じるということではなく、
その国の、民族楽器を使って、演奏するだけで、民族性を感じていることだってあるわけです。
伝統の音楽を演奏しなくても民族性を感じる、ゲーム音楽などを演奏しても世界観を伝えてくれる。
つまり、本質は楽器、楽器の持つ音色なんです。
音階が持っている意味どうちゃらとかの話は無視しますよ。
だって、音階ってのは他の楽器でもマネできる要素なので、メインではないと僕は考えます。
その楽器の「音色を出す」ことが、その楽器の一番の役割ですから。
和楽器は日本の楽器なので、日本という国の変化やあり方に、現在に、合わせて変化しなければ民族楽器たり得ないと僕は考えています。
・本質は楽器であると言うこと。
・音楽は時代と共にある物だと言うこと。
古い物を演奏して、皆で喜ぶとか、そういうの、もうほぼほぼ壊滅しています。
行事や祭りなどと共にある物だって、苦労しているとおもいます。
それは、その楽器や音楽(行事や芸能)が生活の傍らにないからです。
守るとか存続するという考えは、もうすでになくなることが前提の思考です。
なくなる前提の音楽を守る活動に力を入れるのは、ボランティアの方に任せます。
さて、日本の民族楽器は何ですか?と聴いてどんな応えが返ってくるでしょうか?
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