ずーっとモヤモヤしていたり、なにか嫌な気分になったりすることがあるんですよ。
先日こんなTweetをしまして。
なんとなく苦手に感じていたモノを言語化できた。結論がでないもの、結論をだせないもの、出す必要がないものをを議論、討論している感じが嫌なんだな。マウンティングを感じたらもっと苦手。だから僕は価値感がちがうならばそこは対話という形で世界を広げるものとして聴き、伝えるようにしよっと。
— 鯨岡徹【薫風之音の尺八】 (@kujira108) May 14, 2021
考え方、意見が違うときに、対立するように議論をふっかけてくる人。
「議論しないんですか?」
「発展しませんよ?」
とか、もっともらしいことをいってきます。
とはいえ、僕は僕の考えとしてそれを持って行動しているわけで。
たとえ僕の意見や立場を表明しても、それと異なる意見、考えの人を、否定している訳でもないんですよ。
でも、「それはまちがっている!」とか語気を荒げて来る人だっているわけです。
こういうときって、なんか語気を荒げた方が、強くなるじゃないですか。
僕としては、僕の考えで僕は頑張るし、あなたがそう思うなら、そう思って頑張ってください。としか思わないんです。
いろいろ言われても、そうですね。と思うだけで、よほどの合理性や説得性がない限り、自分の考えを買える必要もない場合もある訳です。
「なるほど、そう思う人もいるのか。」って思うだけなんですよ。
まあ、僕も自分の考えをこうやってブログに書いたりしているわけですから、違う考えを持っている人がそれを読むと、
攻め込まれている!何か否定されている!
という気持ちになるかもしれないのは否めません。
僕だってそう思うときがよくあります。
でも、これはこの人の考えだな。って思うようにしています。
それで頑張っているんだな。頑張れ!って。
もっと冷たい言い方をしたら、「僕とは関係ないし」ぐらいにもおもいます。
それでも、お!っと思う思考があれば、また、それを参考に自分はこうする、を考えたりもします。
そこで、わざわざ、自分の考えと違うからといって、それはまちがっている!と攻め込んだりはしないわけです。
あくまで、自分の考え、方針を決定するための材料としてみるだけです。
それは違うな、と思ってもそれで頑張っている人、大切にしている人がいるのなら、その人たちのところにいって騒いだりはしません。
まあでも、世の中には、議論したがり、がいるわけで。
でも、それがなんかモヤモヤしている理由がちょっとわかったんですね。
議論と討論を勘違いしている。
もっというと、マウンティングと勘違いしていることすらある。
そして、べつに議論する相手、対象ではないのに、議論する意味がないことを理解出来ずにいる。
結論を出す必要がないこと、結論を出す関係性にないことを理解出来ずにいる。
ってことなんだなと、少し考えがまとまったところがあります。
ここで改めて書く必要もないですが、僕自身、理詰めの正論クソ野郎なんです。
ほんと嫌な奴なんです。
それで、いろいろ思うこともあって、どうしたらいいかなと悩んだりしています。
そんな自分を変えたくて、いろいろと悩んでいる中で、自分を見ているような場面にも出会うわけです。
そして、自分が責められているような場面にも出会って、心の平穏が乱される場合もある訳です。
今日の話は、僕自身も勘違いしていて、失敗してきた経験もあります。
こんなことをいいながらも、自分自身が改めないといけない部分も多く感じます。
そういった、自分の失敗、自分への反省、これからの戒めとして、まとめて書いている部分もあります。
議論とか討論とか、そういう場面でどんな態度でいるか。
じゃあ、僕は議論まったくしないし、結論を出さないのかというとそんなことありません。
自分の方針、自分たちの方針を決めるために、考えを整理して1つの結論を導き出します。
それは、自分の今後の行動のために、結論が必要だからです。
考えをまとめるため。
そもそも、議論と討論を間違えているという状態があります。
討論は、正しさを示す、という感覚があります。
正誤、正義と。相手を打ち負かすような。
で、ここには、生産性がない、建設的でないという感じです。
議論は、1つの結果を目指してより良い案をめざしてゆく、という感覚です。
だから、結論はださなければいけません。
相手の案、別の案をきいて、なるほどと思うこともあるし、それはちがうかなとおもうこともある。
そんな中で、自分の考えもかわっていくような。
で、僕は生産性もあるし、建設的だなと感じています。
結論を出さなくていい場面、関係性だってあります。
わかりやすく言えば、関係がないときです。
それぞれが、1つの組織、たとえば、会社、グループそういった同じ組織に所属していないときです。
同じ組織に所属しているならば、1つの目的のために、結果を出すために、成果を出すために、組織としての意思決定が重要になります。
だから、ここでは、議論が必要になります。
「議論」をみて胸が苦しくなるときに勘違いしていること
わかりやすく言えば、討論をしてしまうことですね。
正しさを認めさせることになったら、気分悪いです。
というか、楽しくなくなったら、それはもう場の空気が悪くなる結果しかありません。
雰囲気が悪くなるのはもう違いますね。
議論では、1つの成果にむかって、わくわくする、たのしくなる、世界が広がる、思いもしない発想に喜ぶ、枠を超える、といったことが起きたらとおもうんです。
ダメなことをずらずら書くと
・声を大きくして詰めたら有利な感じだったらもうダメ。
・自分の正しさを示そうとしたらダメ。
・相手を打ち負かせようと思ったらダメ。
・考えは変えないと思ったらダメ。
・自分の想像・枠の範囲を超えなかったらダメ。
・雰囲気がわるくなったらダメ。
こんなところだなと思います。
本当に、自分自身気をつけねばいけないと思います。
僕自身以前にいわれたことがあります。
「言いたいこともわかる、それが正しいこともわかる、でもぐうの音もでないようにしたらダメだよ。」って。
そのときは、たしかにそうだなとハッとしながらも、一方では「明らかに劣った案で考えの変わらない人に対しては、どうしたらいいんだ!」と悶々としたものです。
いまでは、なんとなくどうしたらいいかがわかるような気がします。
そして、議論をしなくてもいい関係なんだったら、別に議論しなくてもいんだよ。って思うんです。
結論を出さなくていいんだったら、結論出さなくていいんだよって。
それも勘違いしている場合もあるかもしれません。
結論を出せない問題なら出さなくていいし、結論を共有しなければいけない関係でなければ、結論ださなくていい。
ま、もうこの表題ががすべてです。
結論を出せない問題、出さなくてもいい問題、ってなにか考えればいいんです。
たとえば、
・個人の力ではどうしようもないこと。
・価値感がちがうだけで正誤があるものではないこと。
・立場が違えばどちらも正義であるもの。
などといったあたりかなと思います。
結論を共有しなくてもいい関係となると、
・別々の個人
・価値感の違う個人
・共通の目的を達成する組織に所属していない個人
そういったところかな。
すごく話が長くなりそうです。
今日はここまでにしておきたいと思います。
ぜんぜん尺八と関係ない話でごめんなさい。
ではごきげんよう。
※今日のごはん写真
今日のごはん写真は、三線奏者のきよ里さん提供の「美女と匂わせごはんシリーズ」新作写真です。
匂わせ写真アーティストとしてさらなる充実が感じられますね!!
楽しい写真ありがとうざいます!
さて、討論がいい形になるのはどういったものか、それは第三者の判断がどちらをとるか、といった形なのだと思います。
第三者の判定がどちらかになったか、というだけでそれぞれの意見、案、考えの正誤がついたわけでもないし、善悪がついたわけでもないと思います。
単純に強い、弱い。とか大きい、小さい、といた感じで、どちらも存在している。というような。
でも、どうせなら「なるほど」「おもしろい」「しらなかった」という好奇心、向上心などで、深まってゆくこと、高まってゆくこと、広がってゆくことを目指したいと思います。
そのためには、考えが変わってゆくことも当然だし、思いもしないことがそこにはあるわけです。
楽しくなるか、ワクワクするか、基準をそこに置きたいなと思います。
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