「伝統に立脚した新しい試み」という言葉が苦手。なんかもっというと嫌い。

否定しない伝え方が大事とかいっておきながら、めっちゃ否定していますが。

結局これも、マウンティングに置き換わる部分がある、ということが原因かなぁ。

 

もうほんとごめんなさい。

これは完全に僕の好き嫌いの話です。

なので、もしかすると、めちゃくちゃ感じの悪い話になるかもしれません。

ちょっと怪しい気配を読み取った方は、ここでブラウザを閉じてください。

 

では、ごきげんよう。

 

 

 

それでも、お付き合いくださる方は、この先を読んでください。

どうぞ、よろしくお願いします。

 

どうしてそんなに縛り付けてくるんだ。。。

尺八、まあ和楽器を使った音楽にかかわると、必ずこのような言葉がでるんです。

「伝統をまもりながら、なんちゃらかんちゃら」

「古典をベースに、新しい音楽を、なんちゃらかんちゃら」

もうね、もういいでしょ。って。

 

この、誰かに配慮した物言い。

このように書かないと、新し試みを、時代に合わせた変化を、頭ごなしに否定されるからなのかもしれません。

もしかしたら、何の考えもなしに、書いているかもしれませんし。

 

 

何か、そうしなければいけないような気になったり、気持ちになったり、そうしなきゃダメと思わせられる必要ないですよ。って言いたいのですよ。

僕は。

 

そうじゃなくてもいいでしょって大きな声で言うんです。僕は。

伝統を守ることを大事にしている人もいる。

伝統に立脚した新しい試みに取り組むことを大事にしている人もいる。

それが大事だから、それを頑張る。

 

それでいいじゃないか。

そういった考えは普通な流れだし、健全に思えるし、それが当たり前、みたいな感じですよね。

 

でも、その考えがいきすぎたところは、どうなるかというと、

それ以外は間違っている、邪道だ、ウソだ、伝統を軽んじている、否定している、ってとこrに突入するわけです。

 

だから僕は、声を大にして言うんです。

 

じゃあ別に伝統にしばられなくてもいいよね、って考えがあってもいいよねって。

 

気にしなくていいよって。

自分の好きなこと、やりたいことをやればいいと。

 

それが、伝統と関係ないだけで。

この楽器を使っているからといって、すべてを背負っていなければいけないことは絶対にない訳で。

 

そんなもんを背負わすから、めんどうなんだろって。

 

そして、わざわざなにか否定する必要はないよって。

 

あくまで僕の印象で申し訳ないのですが、

伝統とか歴史って言葉をつかうと、正義、正統、のような正しさを振りかざされている様な気持ちになってくるのです。

 

この楽器を使って、自分の音楽を表現すること、かっこいなっておもった曲をカバーすること、それは悪だ!と否定されて当然、のような、価値の低いモノだと、お遊びだと言われているような気持ちになってしまうんですね。

 

まあ、そうやって否定したり、叩いたりして、安心したいんだと思います。

僕の方から出かけて行って違う考えを否定したり、叩いたりすることはしませんよ。

それしちゃったらきりがないから、違う価値観がある。と認識するだけでいいじゃんって。

そうかって思うだけ。

 

それぞれが違う手段で違う目的で、別のモノを達成すりゃいいじゃんって。

 

和楽器で音楽したっていいだろ。マウンティングに利用するな。

「西洋音楽を和楽器で演奏しただけ」といったわかった風な言葉。

 

それダメなんですか?

 

「和楽器らしさ、和楽器である意味がない」といった音楽ではなく、和楽器に注目した言葉。

 

和楽器である以上、和楽器らしさなんて付きまとっていますよ。

和楽器である意味ってなにですか?

 

そこにある音楽に、和楽器らしさをゆだねる必要、邦楽である必要ってあるのでしょうか?

 

なにより、演奏家そのもののを無視していませんか?

 

 

結論言います。

 

和楽器で音楽したらダメなんですか?

 

ってことです。

 

和楽器は邦楽(という業界が決めているなにか概念的なジャンル)しかできない、やっちゃダメなんですか?

 

こういった考えって、生き延びるすべを限定して、狭めているだけにしか見えないんです。

 

楽器に対するその時代のそのときの1つの価値感でしかない。

僕は、本当に自由に好き勝手に尺八を吹いています。

 

「文化を歴史を伝統を軽々しく扱うな!」というもっともらしい言葉で非難する人もいます。

いやー、ほんともっともらしいです。

 

じゃあ、興味のない人、関心のない人、無視している人、必要ないと判断している人たち、にはどんな言葉をかけますか?

 

軽々しく扱うな!もっともらしい言葉が、世間との乖離を生んでしまいます。

接点をなくしていきます。

閉ざしていきます。

 

本当に風化したときには手遅れです。

 

文化を大切にしろ、尊重しろ。

そんなの当たり前です。

自分が尺八、箏といった存在そのものにとても価値を感じているし大好きです。

 

この楽器ってある1つの時代の、ある1つの価値感に縛られなきゃいけないんですかね?

尺八という楽器、箏という楽器が、大好きで、これが最高だとおもった、その時代の人が、その自分の好きを知ってもらいたくて、共有してもらいたくて、伝えたくてとった手段でしかない。

そのある一瞬のために存在している楽器ではないと僕は考えています。

 

時代に合わないなとおもったら、その時代にあった方法で伝えたっていいんじゃないでしょうか。

 

文化伝統といった時代の変化、価値感の変化のなかで生まれたり滅んだりするものを土台にして、1つの価値感を守り続けるだけのものじゃなきゃいけないのでしょうか。

そうじゃなきゃ楽器としての価値がないのでしょうか?

 

 

価値観が違うと、自由に表現すること、楽しむこと、今を表現することが、否定したり、破壊しているように見えるかもしれません。

裏返せば、制限すること、限定すること、閉ざすことが、文化の破壊のようにも見える可能性があります。

 

 

こんなことを、真面目に論じる人は少数派かも知れません。

文化・伝統・歴史に立脚していた方が、ちゃんとしているように思われやすいし、見えやすいでしょう。

だからこそ、僕は僕の意見としていいます。

 

和楽器で好きな音楽を演奏しよう。

今の自分を表現しよう。

 

尺八でやる必要なんかない?

 

それを決めるのは自分自身です。

誰かの表現ではなく、自分の表現だから。

 

 

 

ではごきげんよう。

 

 

※今日のごはん写真

今日のごはん写真は、三線奏者で匂わせ写真家のきよ里さん提供の「美女と匂わせごはんシリーズ」新作写真です。
プリンいいなー。
僕、こう見えて、プリン大好きなんです。

きよ里さんの新作写真のおかげで今週無事にブログの更新ができました。
ありがとうございました!

 

さてさて、今日の話題は、お前そんな風に考えるなら尺八吹くな、といわれかねない話ですね。
そんな風に尺八にどうでもいいものを関連付ける、背負わせるから、変なことになるのではないでしょうか。

今日の話を裏側から見るとこうです。

業界に向けてアピールをした方が、評価された、仕事になった、時代が確実にありました。
伝統、歴史を重んじて、邦楽というキーワードをもとに新しいものへチャレンジする姿勢が重要である時代が。

でもそれは、その時代のやり方だと僕は思っています。

その時代はとっくに終わりました。そのやり方では業界がやせ細ってしまったのです。
いまだにそのやり方を成功例だと思って取り組んでいる、もしくは何も考えずに倣っていては新しい結果は生まれません。

「伝統に立脚した新しい試み」といった言葉、「伝統、歴史を守りながら」といった言葉が大事だだと思わせたい存在があります。

でも、それは全体の利益にはなりません。
それらが大事だと思わせたい存在の利益にしかならないのです。

信じるか信じないかはあなた次第です。

プロとして仕事としての活動、自分の音楽を表現する活動は、芸事の延長ではないと僕は考えています。
誰かの言うとおりに、誰かにならっているだけで、誰かの顔色を窺っていたら、もう制限された枠の中にいることに疑問を抱かない状態になってしまっています。

 

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