尺八を吹いている以上、何をどう吹いても尺八でしかない。らしさ、イメージに縛られる先に何があるか考える。

和楽器だから、といって、伝統、文化、にこだわるひつようはない。という話をしています。

えっと、こだわって当たり前、という考えではなく。

 

こだわる人もいるし、

こだわらない人もいる。

 

っというスタンスの話になります。

 

伝統にこだわってそれを自分の信念として、貫く人だっています。

素晴らしいです。

 

僕が素晴らしいと言っているのは、伝統にこだわっていることではないです。

 

自分の信念、自分の好きを貫くという姿勢についてです。

 

ですが、注目すべきポイントを見誤ってしまうことがあります。

 

自分が好き、ということにおいては何一つ変わらないんですね。

わかりやすい、説得力のある言葉、妥当性をうむために、都合良く、伝統、という言葉を使うのはちょっと体がかゆくなる。

 

好きだからやってんだ!

 

という、本心をもっと僕はさらけ出していきます。

 

 

ということで、なにやら、そういうもっともらしいこと、で格を高くしているような、素晴らしい箏に取り組んでいるような、そんなのは透けて見えるわけです。

もっと言えば、

間とか、

気配とか、

呼吸とか、

そういったモノが大事とかってなってきたら、なにかもっと向き合うことがあるんじゃないかって思った方がいいと。

 

 

 

 

とはいえ、尺八を吹いている以上、伝統、古典、といったものは付きまとうと思います。

 

極端に言えば、それは勝手ににじみ出るもの、とおもっています。

 

和であること、伝統であること、邦楽であることを別に主張したり、強調する必要なんて全くないという考えです。

らしさ、なんて、あざとさ、とくらいに思っています。

 

自分が出したい音色の中には、わざとそれを表現する必要ない。

音楽に、わざわざそれを盛り込む必要はない。

 

ぐらいに思っています。

 

 

こんなことを言うと、馬鹿に見えますよね。

馬鹿にに見えるから言わないようにしているのではないかと思っています。

 

 

でも、僕はあえて言う。

たとえ、馬鹿に見えようとも。

 

 

 

性格のねじ曲がった黒くじら全開で感じの悪い逆のいい方します。

 

いい子ぶってるように思えるんですよ。

伝統、古典、を大切にしている。ということを前提にして。

やっていることに正当性をつけようとしているように思えるんです。

 

もちろん、わかりやすいお題目、ってのはとても必要です。

大事です。

 

でも、そうすることで、損してしまったり、なにか縛り付けるようになってしまったら、それは邪魔でしかないんです。

 

やっている人、わかっている人、そうあってほしい人、に向けてアピールなんかする意味ないって。

だって、そういう人たちはもうすでに、和楽器に関わっているから。

 

 

和楽器に関わっていない人に接点を持ってもらいたいなら、一切そんなこだわり風、和楽器奏者風を演じる必要なんてないと思っています。

好きなことを伝えたいから、好きなことをする。

それは何でも同じですよ。

 

 

和楽器奏者、尺八奏者なんてあったことないから、いろんな質問されるんですよ。

「家柄がそういった家柄なんですか?」

そんなわけないです。普通です。普通の人が、普通に和楽器演奏してもいいですよ。

 

「普段はどんな音楽を聴くんですか?やはり伝統のものですか?」

めっちゃミーハーです。いろんな音楽聴きます。もしかしたら、音楽に興味ないって言う感じかもしれません。

 

「普段はお着物ですごされるんですか?」

そんなめんどくさいことしません。めっちゃだらけた部屋着でだらだらするし、ベッドで寝るし、椅子に座る。パンだって食べる。コーヒーものむよ。

 

楽器を始めたころはこんなことを音楽の先生に言われました。

「芸大にいこうとでもおもっているの?」

芸大にいくみたいな目的がないと尺八始めちゃダメなの?
おもしろそう、とおもってはじめちゃだめなの?

まあ、この時の音楽の先生はちょっと困った人で、いろいろエピソードがあるわけですが、ここで話す話ではないのでやめます。

 

 

まあ、なんだかんだで、和楽器ってこうだよね、といった印象はものすごく強いわけです。

もうどんどん日常から離れていく印象が強まっています。

 

世間との乖離

 

が確実にあるって認知されている部分が強いと思います。

 

 

伝統に立脚すればするほど、世間と乖離します。

もちろん、どのレベルでという部分もありますが、和楽器が和楽器であること、伝統、歴史、そういったものにどれくらい依存するのか。

 

和楽器の特殊性、特異性だったり、特異的な認知を有利に活用する段階だったらまだいいです。

ですが、の特殊性、特異性は、今後プラスになるものでしょうか?

 

マイナスや乖離を促進するものだったら、僕は解消したほうがいいと思います。

 

古典であっても、演奏者という存在が乖離に歯止めをかける存在になります。

演奏者の好きがつたわれば。

演奏者に興味のある人がその好きを共感してくれます。

 

 

利用する時期と解消する時期は確実にあるとおもいます。

 

 

業界の有識者、もうすでにある一定の価値観で評価する人たち、に向けてのスタンスはもういいんじゃないですか?

 

そういった人たちが作ってきた今です。

 

 

一般に向けて、世間に向けて、聴衆に向けて、もっと音楽を、自分自身を、アピールすることを考える人がもっと増えていってもいいと思いますよ。

その手段が、古典、伝統、本曲、邦楽、民謡、ポップス、アニソン、ボカロ、何でもいいと思います。

自分の好きが一番効果的に伝わるものを選ぶんですから、

 

 

ではごきげんよう。

 

 

※今日のごはん写真

今の時代に文化・歴史・伝統といっている物が、100年前はもっと当たり前で一般的なものでした。
今の時代に文化伝統といっているものが、当たり前で、充分に育っている環境である、つまり時代に合っているわけです。

認識として、共通の感覚として、そういったモノが当たり前に存在していた訳です。
だから、当時も当時なりに、文化・歴史・伝統と過去に遡るモノが存在したでしょう。

そういった実っていたモノ、育っていたモノ、を刈り取ってしまったら、収穫しきってしまったらどうなるかなんて誰でもわかります。

種まき、育成、がない中では、収穫できなくなって当然です。

多様化する価値感、たくさんの娯楽、エンタメ、流行、音楽がめまぐるしく変わっていきます。

だからこそ、守ること、1つの状態を貫くことも大切です。
そして、それが大変なこともしんどいこともわかっていなければいけません。

思考停止の結果の選択肢として安易に選んでいるのなんかすぐ透けて見えます。

土壌、気候、が変化すればそれに合わせる努力も必要です。

だから大事なことは「あなたは何を目的として尺八を手に取ったのですか?」ということです。

伝統を守ることを目的として尺八をはじめるのか。
自分がやりたいことをやりたくて尺八をはじめるのか。
なんとなく興味があってただ尺八を吹きたいと思った。

人それぞれ目的が違うから、多種で多様で、結果として生き残ることができるんじゃないでしょうかね。
生存戦略ってそういうもんでしょ。

他を駆逐して自分だけが生き残る。。。。ないなぁ。

 

 

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