伝統って何なんでしょうね。って話を最近書いています。
こんなことを考える人はどれくらいいるんでしょうね。
で、僕のとしては、伝統ってものの一つの側面を
「流派が作った決まりごと、約束ごと」だったり、「それぞれの流派の音楽、芸術」が伝統と呼ばれるモノだと先日書きました。
で、流派に所属するとかっておいうのは、その決まりごとや約束、音楽、芸術に賛同して集まる、組織やグループの中にはいるってことでもあるわけです。
流派は広義の意味での伝統を守っているわけではなく、その流派の中で作って育てていく伝統を守り、大切にしていきます。
そうやって、伝統を作って行きます。
でも、どうやら、その伝統という言葉の意味の勘違いをしてしまっている人も少なからずいるように思える揉め事というか、時代の流れの出来事もあったと思うのです。
それが、家元批判というようなムーブメントですね。
僕の持論に基づいて考えると、、数十年前とかに邦楽界にあった家元批判とかの議論、まじでバカバカしいと思うんですよね。
そのグループに入っているくせに、なんかそのグループ批判って、ダサすぎないですかね。
賛同して参加しているわけですから。
もっといえば、生活の面倒を見てくれているわけでもないのですから、離れることだって自由です。
まさか、生徒にしかすぎない一般の方がいずれは自分が家元になれるとでも思ってるんですかね?
そんなわけないですよ。
運命の中にある人、流派のまっただ中にいる人、組織のまっただ中にいる人は、伝統を作って行く、繋いでいく立場として圧倒的な使命があるわけです。
だから、全然違うんですよね。
立場も役割も何もかも。
支える価値がなければ、離れれば良い。
離れて欲しくなければ、改善することも考えないと。
で、僕はこのブログでも散々書いていますが、結局、流派、家元、それを支えるのは、ボランティアでしか成り立たない、ってことです。
多くの人が、愛好家として、趣味として、習い事として、稽古代、楽譜代、免状代を払って流派や家元を支えているんです。
それ(家元を支える行為)の延長線上に、プロ音楽家の道ってないんですから。
その道でプロとして成り立っているのは、家元だけなんです。
もしかして、尽くしていればお給料をもらえる、とでも勘違いしたのかしら???
それが発生しないから、批判をしたのかな。
たしかに、それが仕事になっていれば批判なんて生まれないと思いますが、そもそも考えが違うんじゃないかなって思います。
もし、プロの音楽家として生きていこうと思うのなら、自分のプロ活動は自分で切り開くこと、を考えないと圧倒的にダメです。
そして、その組織やグループの伝統を守りたいのならば、家元、流派、を支えるボランティアをするんです。
話が脱線してきました。
そして長くなってきました。
ここら辺にします。
ではごきげんよう。