尺八を吹くとなにやら、日本の伝統芸能を守っているように思えます。
うん、たしかにそうだと思います。
尺八は古くから日本にある楽器です。
それが、今日まで引き続き演奏されていて、今、私たちが吹いていること。
これは、過去と未来をつなぐ行動に間違いありません。
尺八という古くからある日本の楽器が、今も絶えずに演奏されているわけですから。
とはいっても、どれだけ積極的に「守る」っていう意識とともにあるのでしょうか。
僕は、そこまで思っていません。
「関わっている」くらいに思っています。
伝承する、伝える、守る、だなんてとてもとても口には出せないなと思っています。
で、伝統っていったいなんでしょうね。って話が僕は気になるわけです。
僕が思っている伝統と、別の方が思っている伝統は全く違う可能性すらあるわけですから。
僕はかなり広い意味で尺八の「伝統」という言葉を思っています。
言ってしまえば「尺八」そのもです。
しかも、時代の流れとともに変化もするし、形も変わる、今と共にある尺八です。
もちろん、時代と共に尺八は姿を変えたり、制作方法が変わったり、素材が変わったりもしています。
でも、それは尺八という基準がまずあるから、その時代によって変化した派生にしか過ぎないと思っています。
ある時代の尺八こそが正しい、とか、地なしこそが尺八、とか、伝統調律こそが尺八、といった考えではありません。
それらはすべて、そのときの尺八、という考えです。
言ってしまえば、それらは、狭い意味での「尺八」ということでもあります。
だから僕は尺八っていろいろな楽しみがあり、それぞれの時代のそれぞれの価値観を今でも楽しめる懐の広さがあるととかたっています。
となると、狭い意味の「伝統」ってのは僕の考えの中では何を意味しているか。
ある人が作り上げた音楽・芸術・形式に賛同する人が集まり、
次の世代につなげて行かなければなくなってしまうもの、だと思っています。
だから、これも、その時代の、そのときの、という「狭い意味での尺八」ということとほぼ同じです。
そして、
伝統は作って行くもの、作り上げていくもの
という側面も持っているということも意味します。
もっと、奇抜な言い方をすると
伝統は作れる
と言うことです。
かわいいは作れる!キャピ!
とかふざけたら怒られるかもしれませんが。
これまで、伝統は作られてきたんです。
そして、守られてきたんです。
もう少しわかりやすくすると、
伝統でも何でもないけど、何か一つのテーマで一つの集団が50年ほど活動するとそれは伝統になります。
ちょっと嫌みな言い方をすると、伝統に見えます。
狭い意味での伝統と、広い意味での伝統を混同して考えてしまっていると大変なことになってしまいますよって。
あなたが守りたい伝統は、誰かが作った伝統かもしれません。
誰かが作った伝統をまもることは、とっても大事です。
でも、そのせいでなにかが否定されるようであれば、その狭い意味での伝統から離れても良いのではないでしょうか?
自分が守りたい伝統を掲げて、前に向かって動いていけば良いと思いますよ。
だって、そうやって伝統は作られてきたんですから。
前に誰もいなくても、後ろに人がついてくる、賛同者が集まってくれば、それは後の世で、伝統と呼ばれるモノになります。
誰かの作った誰かのための伝統のために頑張らなくてはいけないのでしょうかね?
賛同できなくなったり、協力できなくなったら、離れて良いとおもいますよ。
その中にいないと出来ない、であれば、それまで。
その中にいなくても出来る、からこそ、僕は尺八を吹き続けたんだと思います。
長くなりすぎるので、またちょっと後日書きます。
で、あと、くれぐれもご注意いただきたいので、はっきりと書いておきますが。
僕は伝統を大切に思っています。
だれかが大切にしているだれかの伝統も尊重します。
そして、それはお互いさまです。
決して僕は伝統を破壊する、伝統をぶっ壊す、とか思って活動をしているわけではないです。
そのあたり、誤解のないようによろしくお願いします。
では、ごきげんよう。